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極寒のモンゴル・ウランバートルコンサート顛末記 モンゴル訪問の写真は→[こちら] 到着した日が零下30℃、翌日は「今日はとても暖かい」と喜んで零下20℃、そして3日目はついに零下40℃に達し、さすがのわたくし加納洋も生命の危険を感じたのであります。なにもかも瞬間冷凍の世界では、顔の一部であっても外気にさらしたままでは 、1分も耐えられないのであります。 ところが、ウランバートルの市民は、いつ来るかわからない乗り合いバスを、停留所で辛抱強く待っていました。その姿は、生存の厳しさをいやがうえにも突きつける、心痛む光景でありました。 私が当地に来ることになったのは、本部がタイのバンコクにあるESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会)に勤める友人が、昨年の夏、仕事でモンゴルに出張したことにさかのぼります。その時にモンゴル人通訳から、チャリティコンサートを開きたいと相談されたのです。 モンゴルは日本の約4倍の広大な国土に、人口はわずか260万人で、そのうちの約3分の1が首都のウランバートルに住んでいます。2002年の一人当たりのGDP(国内総生産)は、50.1万トグログですから、邦貨にして5万円弱という低さです。日本は1991年から支援を積極的に行い、経済的な結びつきは年々深まっており、私が宿泊したホテルでも日本人駐在員の話し声が聞かれました。 同国はソ連の崩壊と共に、経済が破綻しましたが、一方でその中からビジネスチャンスを見つけて、成功する人々もいました。このたび私を招聘してくれたのは、昨年発足したイク・ユーリ青年会議所(Ikh Huree JC)の面々、彼らはコンピュータ会社を起こしたり、レストランを経営したり、外国語が堪能な人は外国の政府機関や企業・団体に勤めています。 ほとんどが30代の若さで、みんな自家用車を持ち、交代で私の送り迎えや通訳をしてくれました。ロシア同様当地では、ビジネスで成功した人々はこぞって政界を目指します。そして彼らは近い将来、国会に相当する国民大会議の議員や州政府の議員選挙に打って出るために、その布石としてチャリティコンサートを企画したらしいのです。 近親婚が多く、自然環境が厳しいためモンゴルには視覚障害者がとても多いと聞きました。にわかに信じにくいのですが、なにしろ障害者の24%が視覚障害者で、障害種別では最も多いというのです。そこで、ニューヨーク在住の全盲ピアニストが、当地の盲人協会を訪れ、視覚障害者と交流を行い、チャリティコンサートを行うという青写真が焼かれたのです。 このため、ウランバートル到着翌日の12月3日には、国立のプレスセンターで、テレビや新聞・雑誌等の記者が50人以上も集まった、物々しい記者会見が行われたのであります。そして翌12月4日は、プレスを引き連れて学校と盲人協会の訪問。 午前中は第29学校という障害者学校へ行き、ニューヨークから大量に買い込んできたタンバリンやリコーダーと、メトロポリタン美術館からもらった2冊の「触れる名画集」を贈呈しました。 同校では、アコーディオンの方が大きいのではないかというような全盲児童が、見事な演奏を披露してくれました。 午後はモンゴル盲人協会を訪問、ここはいわゆる授産所で掃除用具や民芸品などを視覚障害者が作っておりました。 ここでは「北国の春」を見事な日本語で歌った全盲男性に会いました。なんでも彼は、「全モンゴル日本語カラオケ大会」とでもいうようなイベントに出て、第2位になった強者なのであります。 そして12月5日が、チャリティコンサートの本番であります。さすがに元社会主義国だけあって、モンゴル国立ドラマ・オペラ劇場という、オーケストラピットもある本格的なコンサートホールは見事なものでした。 前座は、モンゴル国立民族音楽団による素晴らしいホーミーと馬頭琴の演奏。 次いで、モンゴル国立ジャズバンド「バヤン・モンゴル」という18人編成のビッグバンドの登場。ところが、このバンドは戦前のグレン・ミラーなどのオリジナルの譜面で演奏するため、とても古風な懐かしいジャズなのであります。 もちろん、懐メロバンドは米国にもあり、それなりに人気を集めていますが、私はこのバンドと共演しなければならないのであり、これには正直弱りました。 嫌な兆しは、ウランバートルに到着した日に行われたウエルカム・パーティから続いていました。なんとこの歓迎会、ディナーが終わると唐突にコンサートの打合会になったのですが、バンドメンバーのジャズに関する知識が、あまりに古風なことに、唖然とすることが何度もありました。 そこで、ビッグバンドとの共演は見送り、ドラム、ベース、ギター、サックスのピックアップバンドと、とりあえずリハーサルをすることにしました。ところがジャムセッションとなり、アドリブとなると、途端に調子が狂ってしまいます。 彼らは国家のおかかえ演奏家ですから、楽器演奏に関しては一応の技量は持っています。マーチングバンドとしては、日本の優秀な高校生バンドくらいの力はあるのです。しかし、ジャズも伝統音楽と同じようなカテゴリーで考えているようで、時間が止まってしまっているのです。 しかたなく、「ルート66」というスタンダードを1曲だけ共演することにしましたが、お世辞にもご機嫌な演奏とはいいにくいものでありました。 とはいえ、ロシア風の本格的な500席のコンサートホールは満席で、割れんばかりの拍手が鳴り響き、コンサートはひとまず大成功と相成ったのです。 入場券は1枚10ドル(約1,100円)でしたが、普通の公務員の給料が50ドル程度ですから、とても高いものです。収益はすべてモンゴル盲人協会に寄附するというので、私もいつものように出演料は辞退しました。 ところで、コンサートはウランバートルから200km離れたダーハンという町でも、開催する計画でした。しかし出発の朝、路面の状態が悪くて、危険すぎるということで、結局このコンサートは、幻に終わりました。ウランバートルのタクシーなどは、カーブなどではズズーと滑るのを計算に入れて運転しています。慣れている彼らが危険というのですから、幻に終わって実は命拾いしたのかも知れません。 その日生きること自体が、なんともはやなかなかにハードな、極寒のモンゴルの大地でありました。 (福)東京ヘレン・ケラー協会発行、『点字ジャーナル』2004年2月号」より。禁無断転載) |