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ニューヨークからの手紙 −3− プエルトリコからの移民リリーさん  “努力する基礎は普通学校で”


近年、社会での女性の活躍はよく話題になります。企業、団体などの重要なポジションでの女性の活躍も多く見られます。しかし、男女平等が叫ばれて半世紀以上がたつアメリカでも、男性と女性が同じ土俵で戦い、勝ち進むのはたやすいことではありません。ましてや視覚障害を持つ女性ならばもっとたいへんなことでしょう。今月から2回にわたって二人の全盲の女性を紹介しましょう。この方たちは20年近くソーシャルワーカーとしてのキャリアを持つ40代の女性です。

今月ご紹介するのはリリー・ジャカニン(Lilly Jackanin)さん。プエルトリコ生まれの彼女は、現在ニューヨーク・ライトハウスでシニアソーシャルワーカーとして18年勤務しています。彼女が生まれた当時、プエルトリコは盲人が十分な教育や医療のサービスを受けられる環境ではありませんでした。家族と離れ、施設で生活するしか選択がなかったのです。

親兄妹と離れることに反対だった母親が、一家でニューヨークに移り住むことを決めました。ニューヨークでリリーさんは公立の普通学校に入学し、小、中、高と学生生活を送ることになります。母親は彼女に、学校でも家でも健常者の子供たちと交流することを勧めました。小学校時代は健常者の子供たちと同じ教室で学び、午後はリソースルーム(障害者のための特別なクラス)で点字などを学びました。中学に入ると、リソースルームの授業は1日1時間だけになりました。しかし、点字やテープの教材は十分とはいえず、それを彼女自身で準備しなければならなかったそうです。

「健常者の子供たちと交流するという経験のメリットはありましたが、教材を自分で準備しなければならなかったことは、盲学校へ通ったほうが負担が少なかったかもしれません。また、障害者教育の専門ではない普通学校の先生たちは、障害者の学力の面などをあまり期待しない場合が多いのです。だから自発的に勉学に励まなければなりませんでした」と彼女は語ります。

高校を卒業しても職場の選択はあまりにも少なく、ニューススタンド、タイピスト、工場で働くくらいしかありませんでした。どの仕事も彼女にとっては興味がなく、大学に進むことを決めます。しかし、大学を出ても就職先はなかなか見つかりませんでした。そんな時、職安の面接係の求人広告を見つけます。「これならできそうだと思いました。経験もないのに押しかけていき、雇ってくれとお願いしたんです。無謀ですよね。今の私だったらできないかもしれない」。ラッキーにも、彼女はその仕事を得ることができました。

しかし、彼女が一般の会社で働くことは簡単ではありませんでした。仕事を家に持ち帰ることは当たり前。他の人より早く出勤し、その日の仕事の準備をする。リリーさんの人一倍努力するという基礎は普通学校で勉強してきたことで養われたのではないでしょうか。
その後、彼女は大学院に進み、ライトハウスのシニアソーシャルワーカーとしてのポジションを得ます。

「今は私が学生生活を送った時代よりも統合教育のシステムは良くなっています。それにコンピューターなどのテクノロジーの発達は、障害者が勉強するための大きな手助けとなっています。教育や仕事の選択も多くなっています。障害者ひとりひとりは能力も性格も違うので、親ごさんはその子に合った選択をする努力をしてほしいものです。すべての障害者が社会で仕事を得られるとは思いませんが、努力してみることは大切です。地域でも学校でも仕事でも、障害者が社会参加することで、人々の障害者理解も深まっていくと思います」。彼女はそう語っています。


(毎日新聞社点字毎日2003年3月20日掲載。禁無断転載)