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点字ジャーナル92年7月号より
私の女性遍歴
先日、日本の若者に絶大な人気のあった若手ロックンローラーの尾崎豊が麻薬の後遺症で全裸のまま路上で意識不明になり、その後26歳の若さで亡くなりました。このような新聞記事を読むと、ひどく痛ましい気持ちになるとともに、世間のミュージシャンを見る目がさらに険しくなるのではないかと心配にもなります。
僕の友人、というより、アン・ルイスの元だんなと言ったほうが通りやすいKも、その昔ドラッグに手を出し、警察にやっかいになったことがあります。僕の音楽仲間を見回しても、ミュージシャンというより、酒や女にだらしのない人間のクズみたいな連中も多いので、あながち世間の指弾も間違ってはいません。
しかし、なかにはK君のように、立派に立ち直った人もおり、また僕のようにミュージシャンとしてはもちろん、人間としてもなかなか隅に置けない際立った人物もいるわけですから、ここはひとつ、皆さんの偏見を氷解させようとペンを取ったしだいです。
なんて言うと、眉に唾をつけたくなる人もいるかもしれません。しかし、僕は某有名ロックグループのギタリストの歯牙から、ヘレンケラー協会の某美人職員を身をもって守った経歴もあり、一部の協会職員の尊敬を一身に集めていることを申し添えておきます。
ところで、僕は昭和29年に岐阜県中津川市に生まれましたが、生まれついての弱視でした。これを心配した両親が、僕に幼い頃よりピアノとトランペットの英才教育を受けさせ、中学の頃にはテレビに出演するまでになっていました。このようなわけで、この頃には僕の将来は決まったも同然です。そこで僕は、中学を卒業すると同時に名古屋のYMCA英語学校に入り、休みの日にはクラブやキャバレーでトランペットを吹いていました。
ミュージシャンとしてこれから生きる以上、英語はぜひとも必要であり、また漠然とですが、将来渡米して本場で活躍したいという夢もあったのです。当時、僕の家は、両親と兄、それに祖母と僕の5人でした。しかも、母親は働いていたので、僕は母性愛に少し飢えていたところがあったのかもしれません。そのような家庭環境の中から、いきなり女だらけのYMCAに入ったのです。しかも同級生のほとんどが、高校を卒業してから入学しているので、童顔の僕はまるっきり子ども扱いです。テレビで天才トランペッターとしてもてはやされ、有頂天になっていた僕は、奈落の底に落ち込んだような気分でした。しかし、ここでのお姉さん方の教えが女性にオクテだった僕を変えたのかもしれません。
YMCAを卒業すると、5月生まれの僕はすぐに19歳になり、音楽事務所と契約し、本格的な音楽活動を始めました。そこにはレコードデビューしたばかりの1つ年下の歌手、A子がいました。この頃は視力もかなり落ちていましたが、まだ顔の見分けはつき、可愛い彼女に僕はすぐにイカレてしまったのです。今の業界は知りませんが、当時の音楽事務所には、商品に手をつけてはならないという鉄の掟があり、しかも僕らは商品どうしでした。
このようなわけで、僕の初めての恋はこそこそと人目をはばかるものでした。しかし、この恋は半年もしないうちに、事務所の知るところとなり、2人とも即刻クビになりました。仕事を求めて離れ離れになった2人ですが、3ヵ月もたたないうちに、彼女は新しい恋人を作りました。僕はまだ彼女を愛していたので、この裏切りは僕にとって信じがたいものでした。
今も昔もミュージシャンは、若い女性によくもてます。しかも、当時の僕は“紅顔の美少年”でしたから、なおさらもてました。それをいいことに、深く傷ついた僕は、仕事で日本各地を回っては毎晩のように遊び呆けていました。そんな荒れた生活を2、3年続けたのち、僕を救ってくれたのが、ある市議会に勤める同じ年のB子でした。彼女は仕事がらすべての新聞に目を通すというだけあって、幅広い教養を持ち合わせたすばらしい女性でした。しかし、彼女と1年ほど付き合った頃、僕に重大な決意をさせるニュースが飛び込みました。至急上京せよ、という知らせでした。
その頃僕は、すでにトランペットを捨て、ピアノ奏者に転向していました。電子楽器の発達で大編成のバンドはあまり歓迎されなくなり、トランペット奏者の仕事は急速に減っていったのです。僕も今後はピアニストとして、あるいはキーボード奏者として生きていくつもりでしたから、東京での仕事はとても魅力がありました。同ミュージシャンであっても、東京を中心に仕事をするのと、それ以外で仕事をするのとでは、演奏の前に明らかな評価の違いがあるのです。
僕は、彼女を取るか仕事を取るかの選択を迫られ、ほとんど躊躇することなく、23歳で東京に出てきました。今チャンスを逃せば、2度とこのチャンスは巡ってこないように思われたのです。
上京してからは、有名なミュージシャンと毎日のように仕事ができ、さまざまな音楽的な刺激を受けました。そして1年も過ぎた頃、名古屋での仕事が回ってきました。そしてB子の消息を聞いてみると、彼女はすでに結婚しており、幸せに暮らしているということです。僕は傍目にも哀れなほど落ち込みました。自分の勝手で別れておいて、僕はまだ彼女に未練があったのです。落ち込んだまま東京に帰って出会ったのが、丸ノ内でOLをしていたC子でした。
彼女は5歳も年下でしたが、とても家庭的な雰囲気を持っていました。僕はすっかりのぼせ上がって、この女性を逃すと後はないと覚悟し、早速結婚を申し込みました。しかし、これはちょっと早とちりのようでした。僕は盲人の駆け出しのミュージシャンであり、彼女の両親が結婚に賛成するわけがなかったのです。しかも彼女は、まだ19歳になったばかりで、僕としても、このときは彼女との交際を彼女の両親に認めてもらうのが精一杯でした。彼女と一緒に暮らし、東京での音楽活動もそれなりに順調でした。
しかし、しばらくすると、自分の音楽家としての才能、特に作曲家としての能力が日々の生活の中に埋没するような危機感を抱くようになりました。そこで25歳のときに一躍奮起し、自分で主催するバンドを作り、自作の曲を世に問うことにしました。危険な賭けでしたが、この活動は数年たつとしだいに、この業界の注目を浴びるようになりました。
そして1982年に、ポリドールと専属契約を結ぶことができ、前途は揚々たるものでした。
そんなとき、思いがけない知らせが舞い込んだのです。知人の勧めで、それ以前に米国留学の試験を受けたのですが、パスしたというのです。勉強もしないで合格するわけがないと高をくくっていたので、この件はC子にも隠していました。その後何の音沙汰もないので、落ちたと早合点し、すっかり忘れていたところに、この青天の霹靂です。しかも、まずいことに、全盲になっていた僕は、この通知をC子に読み上げてもらったのです。しかし彼女は、僕の話を聞き、“よかったね”と言ってくれました。渡米して本場で音楽の勉強をすることが僕の昔からの夢であることを、彼女は知っていたのです。
米国留学を目前に控え、僕はがぜん忙しくなりました。早速、ポリドールに出向き、予定されていたレコードデビューの話を延期してもらうと同時に、1年間のスケジュールをすべてキャンセルしてもらわなければなりません。今でこそニューヨークには日本人のミュージシャンの卵がごろごろしていますが、10年も前の日本では、高度成長に浮かれていたとはいえ、まだまだ気軽に米国に留学するという雰囲気ではなく、いろいろ面倒なことがありました。
そんなある日、突然C子から別れ話が持ち出されたのです。1年間待っていてくれるものとばかり思っていたので、僕は不意を突かれた思いでした。しかし、僕の心はすでにニューヨークにあり、そんな僕のわがままぶりに、C子は愛想を尽かしたのでした。これはC子の友達から後で聞いた話ですが、4年も付き合っているのに、米国留学という大事な話を一言も聞かされていなかったことが、とても寂しいと洩らしていたそうです。ショックを受けたのは、僕よりもC子だったわけです。
ニューヨークでの1年間の留学生活は、思った以上に有意義なものでした。最初は、ライトハウス音楽院で、演奏法や作曲法を学んでいたのですが、そのうち盲人ジャズソロピアニストとして高名なランス・ヘイワード氏と知り合いになることができました。そして幸運なことに、弟子入りも許され、彼に師事することができました。僕はしだいに、音楽活動の拠点をニューヨークに移す計画を考えるようになりまし
た。
そして1983年に1時帰国すると、残っていたポリドールとの契約を破棄し、ニューヨークへの移転を決意しました。ニューヨークに移り住んで、現在でちょうど10年になります。最初は気取りすぎて女性との波長がいまひとつ合いませんでした。キスしてくれたから、こいつは俺に惚れているなんて勘違いを何度かしたあと、自然に話しかけると、アメリカの女性もやはり同じ人間であることがわかりました。しかし、恋人に愛の言葉をささやいたり、花束を贈ったり、べたべた人前でいちゃついたりという米国の習慣には今も慣れることはできません。
こんなわけで、アメリカ娘との恋愛は、いつも数ヵ月で僕のほうがギブアップしてしまうのです。しかも、アメリカ娘の場合、身長が僕より低いからと油断すると、脛の長さが僕より確実に10センチは長いのです。そこで現在は、帰国すると、知り合いの大和なでしこに盛んにアプローチしています。しかし、彼女らは僕を恋愛の対象として見ていないらしく、恋人を連れてきて、“彼のこと、どう思う?”などと相談を持ちかけるのです。過去の栄光も、おなかの出っ張り具合に反比例して、地に落ちたものです。これでは、映画「男はつらいよ」の寅次郎の人生です。
(了)
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