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点字ジャーナル96年9月号より
ミュージックサロン 天才ピアニストの問わず語り 2
ライブハウスの奇遇
思いがけない出会いというのは確かにあるものだ。あれは今から3年ほど前、マンハッタンのライブハウスでの出来事であった。私の友人にボロ(BORO)というシンガーソングライターがいる。「大阪で生まれた女」というヒット曲があるので、あるいはご存知の読者も多いかもしれない。そのとき僕は、彼のコンサートでキーボードを担当していた。
200人くらいの観客の中には、僕の友人も10人くらいおり、コンサート終了後、楽器を片付け、ライブのテーブルで、この友達と酒を飲みながら、たわいない話をしていた。そこに突然、1人の女性が現れ、甘い声で「洋ちゃん、私。アサコだけど覚えてる?」と言う。一瞬目の前が真っ暗になり、アサコという名前が僕の優秀な脳細胞を高速で回り始めた。でも、アサコという女性とは付き合った記憶がない。しかし、今まで付き合った数百人の女性の名前を1人ずつ思い出そうとしても、それは無理というもの。これがもてる男のつらさである。
そこでとりあえず黙っていると、何も言わない僕に業を煮やしたのか、その女性は「私よ、アサコよ。隣の家の幼なじみよ」と言うではないか。昔の女のことをいろいろ考えては青ざめていた色男、つまり僕は、ホッとしたものの、同時に天地がひっくり返るような驚きを覚えた。ガクッ!というやつである。
なにしろアサちゃんと最後に会ったのは、20年ほど前にもさかのぼる。この頃の彼女は、可憐な高校生であった。この日ばったり出会うまで、彼女も僕も、お互いがニューヨークに住んでいるなどとは夢にも思わずにいた。当然彼女も、僕がステージで演奏するのを見て、よく似た人が世間にいるものだと、何度も首をひねっていたという。しかし、メンバー紹介でボロが僕の名前を言ったため、彼女も死ぬほど驚いたという。
僕らの故郷は岐阜県にある小さな町、中津川市である。お互いに20代の同時期に東京に住んでいたが、一度も会ったことはない。里帰りしたときも、また会う機会はなかった。それが何の縁であろうか、はるばるニューヨークでばったり会うとは。たまたま彼女のご主人がボロのファンで、彼女もそれでこのライブを見に来たという。もし彼らがこのライブに来なかったら、いまだに僕らは再会していなかったであろう。
こんな不思議な縁があってから、僕はしょっちゅう彼らのアパートにおじゃましては、20年間のブランクを語り合った。年下のご主人も、ミュージシャン志望ということで、僕が行くと大変喜んでくれる。アサちゃんは子どもの頃から勉強していた絵の才能を活かし、スリーディメンション(3D)アートを作っては売っている。
3Dアートというと、東京の友人は立体芸術と訳し、コンピュータグラフィックスを想像したという。しかし、彼女の3Dアートは、たとえば粘土で皿とかコップのミニチュアを作り、それをカラフルに塗り分け、小さなキャンパスにそれを貼り付けて、立体的なかわいらしい絵を作るのである。彼女は道路に面した1階に小さなお店兼アトリエを借りて、そこで直販しているという。
僕らの会話は、そんな近況から始まり、子どものときにどちらがいじめたのいじめられたのという話から芸術、哲学の話にまで及んだ。しかし、レポーターアサコというあだ名をつけられるほど、彼女は根掘り葉掘り僕のことを聞き出そうとする。そして、つい酒をご馳走になり、しつこくて、しかもうまいインタビューに負けて、僕はいつもすべてを吐いてしまう。
しかし、それだけならどうということはないが、なにしろ彼女はレポーターである。彼女はそれを、友人のおしゃべりなおばさんたちに話すものだから、僕の知らないところで僕の過去の秘密が1人歩きを始めているらしい。巡り巡って僕の周辺でも、それらしい怪しげな雰囲気を感じることが時たまあるので、これはちょっと怖い話である。
どうせ面白おかしく尾ひれが付いているに決まっているのだろうけど、こそこそやられると決していい気はしない。このことさえなければ、僕とアサちゃんの再会は実にすばらしい奇遇なのであるが・・・。
(了)
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