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点字ジャーナル97年9月号より
ミュージックサロン 天才ピアニストの問わず語り
音楽とパフォーマンス
今年3月初旬、静岡県浜松市にある視覚障害者のための授産施設「ウイズ」が開所一周年を記念してチャリティーコンサートを開いた。そして僕は、それに出演するため、久しぶりに帰国した。コンサートのメインゲストは手話ロックで有名なバンド「シャンテ」である。
彼らは5年前に僕が大阪でコンサートを行った際、ゲストとして出演してくれた。そんな縁で、今度は僕が彼らのステージに招かれ、出演させてもらったわけである。そのときのようすはご存知の通り大成功であった。これは当然、ウイズの芝さんをはじめとする主催者側の努力と、地元の方々の協力がなければできなかったことである。しかし、それとともに、シャンテのみんなも1生懸命に楽しく感動的なコンサートをやろうと頑張り、それがよく聴衆にも伝わり、成功につながったのだと思う。
コンサートを終え、東京に戻ったある日、ある障害者の施設で働く1人の盲人にこう言われた。
「加納さんはシャンテとコンサートをしたそうですが、彼らは盲人のバンドで手話を取り入れているから、珍しくてマスコミに取り上げられていますが、音楽的なレベルはどうですかね」こういう質問はよく、特に障害者の人から受ける。そこで、この場を借りて僕の意見を述べさせてもらいたい。
まず音楽的レベル。つまり曲がいい、歌がうまい、演奏がじょうずというのは、僕がここで言うまでもなく、レベルが高いほうがいいに決まっている。しかし、実際のパフォーマンスを見たり聴いたりするときは、もっと別なものも重要になってくる。それは、ルックス、マナー、しゃべりなどなどである。もっと言わせてもらえば、盲人が歌うから感動することだって、あって当然だと思うし、なにも悪いことではない。人に感動を与えるのは、どんな形であっても素晴らしいことであると考えるからだ。したがってシャンテは、3人の盲人がやっているバンドだから聴衆が感動する、ということがあっても、それはそれでいいことであり、立派なことだと思う。ミュージシャンであれば、技術的なことは一生勉強を続けていかなければならないし、もっとうまくなりたいという気持ちを持ち続けることも当たり前のことだ。
しかし、だからといって、音楽的に高いものだけが、必ず高い評価を受けるかというと、そんなことはありはしない。その事情は、アメリカでだって同じことである。2、3、例をあげてみよう。
サックス奏者のケニー・Gはグラミー賞も取っているアメリカでは有名なアーティストである。しかし、彼の音楽がハイレベルだなんて言ったら、ミュージシャンの世界では間違いなく、その能力を疑われる。
もう1人、ブロードウェー・ミュージカルにアンドリュー・ロイド・ウェバーという作曲家がいる。彼の名前は知らなくても、彼のヒット作「キャッツ」「オペラ座の怪人」「スターサイド・エクスプレス」などはご存知の通りである。しかし、彼の作曲家としての才能を認める人は、プロの世界には1人もいないと言って過言ではない。
日本でも小室ナントカという坊やが売れているそうだが、個人的にはあんなもの音楽とは呼んでほしくないシロモノである。
ところで、僕がどれだけ文句を言っても、大衆は彼らの音楽を聴いて喜んでいるわけだから、それでいいとも言える。彼らと比べたら、盲人が人前で感動的なパフォーマンスをするほうが、ストレートにそれが伝わる場合が多いのではないだろうか。
さらに、わかりやすい例で言えば、きれいな女の子にちょっとやさしくされると、僕は男だから、彼女がすごくやさしい天使にも思えてしまう。しかし、ブスの子に同じようにやさしくされても、軽く、いい子だね、ぐらいで片付けてしまう。
このように、誰が、何をするかということも非常に重要な要素である。
アイドル歌手が売れる理由もこのあたりにあるはずで、歌手としての才能を彼らに期待するほうが無理というものだ。この際、どっちが正しいかなんていうことは、どうでもいいことだと思うけれど。
初めの話に戻ると、盲人が、同じ盲人で頑張っているミュージシャンを否定的に見るよりは、暖かく見守るほうが、ずっと人間的だと、僕は思う。難しいことは専門家に任せ、頑張っているのだから応援してあげるという気持ちくらい、あってもいいんじゃないだろうか。
(了)
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