Profile
点字ジャーナル97年11月号より
ミュージックサロン 天才ピアニストの問わず語り 8


小さなジャズ放送局の成り立ち  


僕が初めてニューヨークに来たのは1982年。当時、寮生活をしており、ラジオばかりを聴いていたのですが、そのFM局の多いことに、まず驚きました。1日中ロックをかけている局、そしてクラシック、ソウル、カントリー、シャンソン、ジャズと、すべてのジャンルをカバーする音楽ステーションが数十局もありました。

その中で僕がいつも聴いていたのは、88.3ヘルツWBGO(ダブリュー・ビー・ジー・オー)。この局は毎日ジャズをかけている放送局です。今回は、このステーションがスタートした頃から、スタッフとして活躍していたドーサン・カークさんを通して、ニューヨークの音楽専門放送とはどのようなものか、ご案内しましょう。

彼女は、かの有名な今は亡きジャズミュージシャンのローランド・カークさんの奥さんでもありました。WBGOのスタジオは、ニューヨークの南隣、ニュージャージー州ニューワークにありました。彼女は、陽気でおしゃべりな典型的なアメリカのオバちゃん。僕がWBGOがスタートした頃の話を聞かせてくださいと言うと、待ってましたとばかりに、立て板に水です。それでは、まず彼女の話を聞いてください。

『WBGOは、もともとニューワークの教育委員会が持っていたの。でも、それは普通のラジオ局ではなく、特別なレシーバーを使って受信する放送局だったのね。それを1970年代に今のジャズステーションの生みの親、ロバート・オーテンホーフさんが教育委員会から手に入れたのよ。それが1976年の9月、私は78年の10月からこの仕事を始めたんだけど、その頃は、まだセントラル高校の4階にスタジオがあったのよ。おもしろいでしょ。というのも、教育委員会が運営していたときの番組をじょじょに減らして、ジャズステーションに変える途中だったからなのね。』

『その頃ロバートは、スタジオをほかの場所に探すのに忙しかったわ。そして、1971年の1月に現在の場所に移り、その年の4月から24時間のジャズ放送を始めたのよ。ロバートはまだ20代で、初仕事がジャズステーションの設立だったの。だから、誰もこんなクレージーな話は信じなかったわ。でも、スタッフは純粋にゴールに向かって努力していたのよ。』

『当時、私は39歳で1番の年上。ほかはみんな20代で、ちょっとしたことで大騒ぎになったわ。大口の寄付をもらってひと息ついたときも、電話を引いたときも、スタジオを手に入れたときも、アンテナを立てたときも、どんなことでも驚きの連続だったわ。今、ロバートはワシントンDCの大きな放送局の重役だけど、今でも時々電話で、あの頃はバカをやったって大笑いするわ』

こんな調子で彼女の話は延々と続くのだが、専門の関係で以下は要約します。彼女のご主人、ローランドさんは、1977年の12月に亡くなり、そこで彼女の将来を心配したご主人の友人が、現在の仕事を紹介してくれた。最初はパートタイムで、秘書のような仕事から始めたが、なにしろスタッフが少なかったので、なんでもやったという。

この局はコマーシャルを取らず、会費で運営しているので、最初は資金繰りに困った。そこで、いろいろな企業や団体に手紙を書き、寄付を募り、ミュージシャンに頼んで資金集めのコンサートを開いた。

こんな地道な努力を数年続けた1980年9月、思わぬ幸運が舞い込んだ。当時、ニューヨークにあったジャズステーション、WRMR(ダブリュー・アール・エム・アール)がカントリー&ウエスタンのステーションに衣替えしたのだ。それをきっかけに多くのジャズファンが、この小さな放送局に注目した。

そして、その後は着々と発展し、今では1万1千人以上の会員と、多くの団体や企業のサポートを得て、ニューヨーク、ニュージャージー、コネチカットで、毎週30万人以上の人がこの放送を楽しんでいる。

また、最近は、インターネット「http://www.wbgo.org」を使い、世界中にWBGの番組を送信している。インターネットの番組リスナー(有料)は、毎月十万人以上にものぼり、60ヵ国で聴いている。もちろん日本にもたくさんリスナーがいるそうだ。

そのため現在は、スタッフも50人に増え、マスタースタジオを1つと、プロダクションスタジオを2つ、それにスタンウェイのピアノを備えたパフォーマンススタジオを持つまでになったという。このパフォーマンススタジオでは、子ども達にジャズの素晴らしさを知ってもらうイベントなども行っている。

最後に、リスナーからの反応で、いちばん嬉しいことは何かと聞くと、彼女は、『WBGOは私の大好きな放送局。車の中でも、寝室でも、浴室でも、とにかくどこにいても聞いてます、って言われたときかしらね』と言って、大きな声で笑った。一青年のジャズとラジオ放送にかける情熱が仲間を集め、夢の実現に向かってみんなで力を合わせた。なんかいい話じゃありませんか。アメリカで生まれたジャズをこういう人たちが大切に守っている。この放送局のますますの発展を心から願う私であります。

(了)


記事一覧へ戻る



| Home | Profile | Discography | Writings | Yo Kano in Media |
| Calender of Events | Links | Contact Info | English Page |

© 2000 Yo Kano